昭和二十年八月七日、長(zhǎng)崎醫(yī)大放射線科の醫(yī)師、永井隆は日増しに激しさを増す空襲に、十歳の息子?誠(chéng)一と五歳の娘?茅乃を、妻?緑の母?ツモの居る木場(chǎng)に疎開させた。その夜、緑は診察のため長(zhǎng)い放射線をあび、自ら命を縮めようとしている隆に休息するよう懇願(yuàn)するが、彼は患者が増えているからと聞き入れない。八月九日、午前十一時(shí)二分。川で泳いでいた誠(chéng)一は、浦上の方で空がピカッと光るのを見た。そして突風(fēng)が津波のように押しよせてきた。街の方で何かあったのかもしれないと様子を見に出かけたツモは、日が暮れてから漸く緑の骨を缶に拾って戻って來(lái)た。次の日、ツモが誠(chéng)一を連れて焼跡を訪れると小さな十字架が立てられていた。ツモは隆がここに來(lái)たと言う。隆はその頃、被爆者の救護(hù)活動(dòng)をしていた。ツモと骨を拾っていた誠(chéng)一は焼け焦げた縁のクルスを拾う。八月十五日、日本は無(wú)條件降伏し戦爭(zhēng)は終った。隆は放射線醫(yī)として原爆の記録を綴っていたが、子供たち二人のために、たった一人の母の思い出と、人間としての尊厳を守る強(qiáng)い愛を殘そうと自分の體験を執(zhí)筆し始めた。新學(xué)期から誠(chéng)一が大村の學(xué)校に変わることになった頃、緑の妹?昌子が尋ねて來(lái)た。彼女は修道院へ入ると言う。そして、昌子は原爆の落ちた日、生徒たちを置き去りにして防空壕へ逃げ、ついて來(lái)た一人の生徒が仲間を助けようとし眼の前で死んだこと、自分は何もせず怖くて茫然としていたことを告げる。隆は執(zhí)筆のために建てた如己堂で何冊(cè)も脫稿するが、進(jìn)駐軍の検閲が厳しく一冊(cè)も本にできなかった。そして、三年後の四月一日、「長(zhǎng)崎の鐘」が発売された。一九五一年、隆は四十三歳で亡くなり、翌年、ツモが後を追った。誠(chéng)一は成人し、今は世界の戦地を回る通信記者になっていたが、父の教えを立派に守っていた。